(2011/09/26 撮影)

吉川英治「新・平家物語」攷。 (私の『新・平家物語』研究)
 
初出は 1950 (昭和二十五)年 ー 1957 (昭和三十二)年 週刊朝日に聯載。
 
初版は 1951 (昭和二十六)年から順次 朝日新聞社より刊行。 全二十四巻、 装幀・挿畫 杉本健吉 定價 二八○圓
 
   當時は文部省の漢字使用規制も それほど嚴しくはなく、本然送り假名で 且つ 義經・辧慶(辨ニアラズ辧)等 総て康煕文字であった。
 
1959 (昭和三十四)年「新装本」が朝日新聞社から刊行。 全八巻、杉本健吉 挿絵、東山魁夷 装幀   定價 三九○圓
 
新装本添付奥付に曰く;
(一)  旧版二十四巻を全八巻におさめたこと。
(二) わかい世代のあたらしい読者の方のために、著者の快諾をえて、全文新かなづかい、当用漢字を主としたものにあらためて、
    面目を一新するとともに  固有名詞などの、やむをえないむずかしい読みには、全部ルビつきとしたこと。
(三) ー 省略 ー
 
   則ち、この時點で 折角の格調高い文章は その風格を堕としてしまい、 以下いげ 原本は絶版となり 吉川英治『新・平家物語』は総て
   この新装本が「正本」となってゐる。
 
文化大革命の先鋒旗手・朝日新聞社の面目躍如。
 
1962 (昭和三十七)年九月七日 著者逝去。
 
1962 (昭和三十七)年11月25日、「全十二巻」本初刷が朝日新聞社から出版。
 
内容的には「はしがきに代えて」からルビが削除されたほかは、新装版に同じ。
 
1967 (昭和四十二)年、講談社から出版の「吉川英治全集」に所載。 杉本健吉 挿絵、装幀 定價 六百八○圓
 
内容的には朝日新聞社版全八巻本に略々同じ。 しいて重箱の隅をつつけば、原本に「意氣揚揚」とあるところ、「意気揚々」等々。
「著作権者の了解により検印廃止」とあるが版權が講談社に移ったのか否かは明記なし。
 
1981 (昭和五十六年)、 子息・吉川英明を編輯責任者として「吉川英治全集」を出版。 「新・平家物語」 挿絵 杉本健吉、
     装幀 加山叉造・蟹江征治 版權者 吉川文子 定價 一六八○圓
 
1989 (昭和64・平成元)年4月11日 吉川英治歴史時代文庫「新・平家物語(一)」 初刷發行。 全十六巻。 「表記」については獨自の原則あり。
 
昭和二十六年上梓の全二十四巻本が鎌倉市立圖書館を含めて 近隣の圖書館に藏本されてゐないのは 返す返すも殘念の極みなり。

  

安藝宮島

(2010/12/05 撮影)

 

原版追憶の意を込めて、昭和二十六年七月三十日發行の 朝日新聞社刊 『新・平家物語 第二巻 九重の巻「赤旗の下」』(定價二八○圓)の一節を 以下に引用する;
 
・・・當初の舊邸は、今では、長男重盛や、老臣の木工助家貞の住居に當てられ、ずつと五條の河原べりまで圍ひを延ばして、騎馬のまゝ出入りできる二階門やら新邸が建て増されてゐた。
 
庭園を抱いて、幾棟もの、寢殿や對ノ屋にわかれてゐるので、あるじの居室はどこか、御臺盤所の屋根はどの邊かさへ、分らないほど、廣かつた。
 
ところが、きのふ今日は、さしもの廣さも、近郷や遠國から、馳せつけて來た武者どもで、邸の内も外も、ごつた返してゐた。
 
馬は、到底、置く餘地がないので、附近の空き地や、河原の木陰に、急場の馬つなぎをしつらへ、馬卒たちは、馬と共に、野營してゐた。
 
これらの人數は、さきに、法皇崩御の會葬に、上洛したものもあるし、早耳に、中央の變を知つて、ともあれ、夜通しでやつて來た氣負ひ者も少なくない。  そして、清盛から、檄を發した自領の地方兵は、昨日あたりから着き始め、けふもまだ續々、上げ汐のやうに、門前に到着を告げてゐた。  ・・・
 
 
上記でお判りの通り、古典送り假名に加へて 當時の日本語には吃音がなかったことに氣付く。

 

平家納經で有名な平家ゆかりの嚴島神社

偖て、七年の長き亘る週刊朝日への聯載、通常 編輯子により單行本出版時には校訂されてゐるものだが、明らかなる齟齬・矛盾が間々殘されてゐる。

 二、三擧ると;
『これは、安藝守清盛の二男、安藝判官基盛あきのはうぐわんもともりと申し、生年十七歳です。 ー 父清盛は、かたじけなき綸旨を奉じて、自領の武士どもや、舊縁ある國ゝの者どもへも、・・・』 と 保元の亂における次男基盛の初陣ういじんが華々しく描寫されてゐながら、いつの間にか基盛の存在が消へてなくなり、壇ノ浦前夜には 内大臣宗盛が「不肖の次男」として母二位の局から「お前は他人の胤、他人の腹」だと こっぴどく痛罵されることになる。
 
原文を引用すると、(新・平家物語 第二十巻 浮巣の巻 朝日新聞社 昭和三十年十一月 第一刷) 『似もし給はず』で;
 
  『ああ、わらわも、愚痴になったわなう。 もし、わが良人つま(清盛)がおいでたら、どうお顔向けができようぞ。 こう沁々しみじみと語る夜も、おそらくは、こよひぐらいなものであらう。 それゆゑ、今こそ、じつを打ち明けるが、宗盛どのこそは、まこと、入道にゅうどうどののおたねでもなく、わらわの産んだ子でもない。  ー むかし、清水坂の唐笠法橋からかさのほうきょうといえる法師ほっし商人あきゅうどの子なりしぞや。 ・・・さればこそ、父君の大相國だいしょうこくとは片鱗へんりんだも似たまはず、おん兄の小松内府どのとは雲泥のおちがひよ。 ・・・とは云へ、それもこの尼が若き頃の、いたらぬ心から生じたこと。 思へば申しわけないことではあった。

・・・ 今さらなれど、良人つまへも、御一門へも、かうお詫びしますぞや』
 と、尼は白い絹の中へ顔をうずめ、
 『若い清盛は、嫡子重盛についで、次のも、男なれとひたすら妻へ望んでゐた。 ところが、産屋さんや呱々ここの聲は、女子であった。 ・・』
 
と續く。  この間、基盛の消息は 平治ノ亂の叙位・除目で大和守に任じられて以降、全く途絶へてしまってゐるが、吉屋信子「女人平家」に そのへんの裏事情らしき記述がある。

 則ち 重盛は正室(右近將監高階基章息女)嫡男なるも 基盛は白拍子のせるもので 十歳の時、後添・継室時子が六波羅に引き取り育てた。
そして、平治ノ亂でも武勲をたてたが、その年の夏、宇治川で騎馬ともに生年二十一歳で不慮の死を遂げたとある。 晩年の二位ノ局時子の記憶には宗盛が次男として定着してしまってゐたのかもしれない。  もっとも 吉屋信子は 宗盛を時子の生せる子として描いてゐる。
ちなみに基盛には一男一女あり、一子行盛は伯父重盛に育てられ、壇之浦で討ち死にしてゐる。

原本たる 古典『保元物語』では「上」(官軍方々手分けの事)に 『・・・安藝守清盛が二男、安藝判官基盛とは我事也。 ・・・』 とあり、また(官軍勢汰へ並びに主上三條殿に行幸の事)にも 『安藝守清盛に相随ふ兵は、嫡子中務少輔重盛・二男安藝判官基盛・・・』 とある。

しかし、古典『平治物語』 金刀比羅宮所藏本 には「中」(謀叛人流罪付けたり官軍除目の事並びに信西子息遠流の事)で 『やがて除目をこなはれ、清盛は正三位し給。 左衛門佐重盛は、伊豫國を給りて伊豫守とぞ申ける。 三河守頼盛は、尾張國を給て尾張守とぞ申ける。・・・』 とあるが 基盛の名前はどこにも見當らない。

ところが、同じ古典「平治物語」でも 『古活字本・平治物語』 には「巻中」

段章「官軍除目行はるる事付けたり謀叛人賞職を止めらるる事」で 『やがて叙位除目おこなはれて、大貳清盛は正三位に叙し、嫡子左衛門佐は伊豫守に任じ、次男大夫判官基盛は大和守、三男宗盛は遠江守になる。 清盛舎弟三河守頼盛は尾張守になる。』 とある。

古典『平家物語』では 段章「吾身榮花」で;

『吾身の榮花を極るのみならず、一門共に繁昌して、嫡子重盛、内大臣の左大將、次男宗盛、中納言の右大將、三男知盛、三位中將、・・・』 となってをり、基盛に系はる記述はどこにも見あたらない。

現代の古典研究者のバイブルである、諸古典を集大成した「日本古典文學大系」が岩波書店から順次 刊行され始めたのが昭和三十年代中盤のことであり、それまでは獨自に個々の原典にあたるしかなかった。

  惟ふに 筆者は 「保元・平治物語」 については 『古活字本』 に行き當たって それを参照・引用したのではあるまいか。   「新・平家」では、それぞれの舞臺・時代を 對應する それぞれの「古典」に併せたものかもしれない。

おしむらく、岩波書店「日本古典文學大系」も いまや絶版となって、第一水準漢字・新假名遣いの「新・日本古典文學大系」に置き換はってゐる。


また 清盛の兄弟について;

零余子艸子ぬかござうし』に
 『・・・ 清盛をかしらに、二男經盛、三男教盛、四男家盛。 ー こゝまでが、祇園女御との間にできた子となってゐるが、教盛だけは、待賢門院の女房、藤家隆とうのいへたか のむすめだといふ一説もある。 眞僞は、 わからない。  それから、五男頼盛、六男忠重、七男忠度ただのりの三人は、しばゝゝ云ふ通り、後添への有子、池ノ禪尼との子である。 これは、たしかである。』

と 念には念を押してゐるにも不拘らず、後に 薩摩守忠度は紀洲の別腹に生まれ替はってゐる。


則ち、『石船の巻』『鯨』で、;

「・・・弟か。 忠度ただのりと申すおれの弟か」「六波羅の兄君でございますか」  清盛と、その異母弟、忠度とは、この日、初めて、相見たのである。
むかし、二人の父忠盛も鳥羽院に供奉ぐぶして、この熊野にもうでたことがある。 そのおり、別当の一女、浜御前はまのごぜんと忠盛とのあいだに宿されていた一子が、忠度であったのだ。 ・・・

として、十九歳の異母弟を六波羅に引き取る經緯が詳しく書かれてゐる。

さらに、『忠度・歌がたみ』で 『・・・それよ、薩摩守忠度さつまのかみたゞのりといふ故入道殿の腹ちがひの御弟にて、幼少を熊野に生ひ育ち給ひたる平家随一のゆかしき大將なれ ・・』 とある。

800年前の人の出生に諸説あるは むしろ當然なれど、同じ作者の同じ作品の中で諸説あるは これ如何に?
通常、聯載時の齟齬・矛盾は編輯子により校訂されて、單行本出稿時には訂正されてゐるものなのだが。


この段、吉屋平家では、; 「姑の房子が蔭でつぶやいたのは良人の忠盛の先妻からは清盛、妾腹からの經盛、教盛。 そして 房子自身からも夭死の家盛、その弟の頼盛、脇腹からも忠度ただのりと清盛の異母弟五人で男系揃いの実感 ・・・」 と 六男忠重を欠いた異なった記述になってゐる。


原本たる 古典「平家物語」では 段章「すずき」で;

『・・・忠盛叉仙洞に最愛の女房をもてかよはれけるが、ある時其女房のつぼねに、妻に月出したる扇を忘て出られたりければ、・・・』 とあって、
『薩摩守忠度の母是なり。』  と續く。

まさか 吉川英治が 古典『平家物語』 の記述を知らなかったわけではあるまい。

 

家盛の出生について 保安四年 (1123) とするものと 太治二年 (1127) とするものと 二説あり。

保安四年なら 忠盛の次男だということになり、太治二年なら三男だということになる。 孰れにしても 吉川平家が云うように 四男で祇園女御肚だとすると、久安三年(1147)夏の 清盛の神輿への狼藉のあと、家督を諍ったことの根據に缺けることになるし、なにより池禪尼が清盛に 兵衛佐頼朝の命乞いをした動機も稀薄になる。

吉川平家では この家督爭について言及してないが、やはり 家盛は次男で 正妻宗子肚だとするべきではあるまいか?  しかし そうだとするなら、今度は正妻宗子は 祇園女御との関係がまだ續いてゐる随分早い時期に忠盛に嫁したことになる。
祇園女御肚の 修理大夫經盛(保安五年)、門脇中納言教盛(太治三年)を成し、しかも 右馬頭・家盛と池大納言・頼盛出生(太治三年)とのあいだが 15 年もあって ちと不自然ではある。

ちなみに 家盛の名前は 古典「平家物語」には登場せず、古典「平治物語」(頼朝遠流ニ宥メラルル事 付けたり 呉越戰ヒノ事) で 「右馬助家盛」、「故右馬助殿」、「故家盛」として名を標してゐる。


「烏有ノ人物」も多々 登場させてをり、やはり「新・平家物語」は 『小説』であると考へるべきであろう。 「物語・傳説」と「歴史・史實」との境界を どのように讀解すればよいのであらうか?

因みに「池ノ禪尼」のいみな名告なのり)は 「宗子」であるが、 なぜだか 吉川平家では「有子」、吉屋平家では「房子」となってゐる。


参考ならびに引用出典;

「新・平家物語」第二巻 九重の巻 朝日新聞社 昭和二十六年七月三十日發行 定價二八○圓
「新・平家物語」第十七巻 ひよどり越えの巻 朝日新聞社 昭和二十九年十二月十日發行 定價二八○圓
「新・平家物語」第二十巻 浮巣の巻 朝日新聞社 昭和三十年十一月三十日發行 定價二八○圓
                       (全二十四巻)

「新・平家物語」 朝日新聞社 昭和三十四年發行   全八巻

吉川英治歴史・時代文庫 「新・平家物語」 講談社 一九八九年發行 全十六巻

吉屋信子「女人平家」 朝日新聞社文庫版 昭和54年5月20日 第1刷發行 上中下

日本古典文學大系 『平家物語』 岩波書店 昭和34年 初刷
日本古典文學大系 『保元物語・平治物語』 岩波書店 昭和36年 初刷

(2011/09/20 初出・初稿   2011/10/05 改  2012/04/12 再訂)

私の (古典)「平家物語」 研究 のページ への リンク。

『壇之浦夜戰記』餘話 のページ への リンク。

面白いことを見付けました。

古式乘馬は 「右乘り、右降り」 なんです。

なんでも、左手に弓を持ち、左腰に差した刀を いつでも抜けるよう、常に右手を空けておくためなのだそうです。

ゆんで(左手・弓手)めて(右手・馬手) と謂う言葉は そこから由來してゐるとのこと。

めて乘りでは ゆんでの刀が邪魔になって 乘りにくいのではないかと心配です。

平治物語 ー 金刀比羅宮藏本 「待賢門の軍の事 付けたり 信頼落つる事」 に;

さふらひ、「とくめし候へ。」 とてをしあげたり。 こつなくやをしたりけむ、弓手ゆんでのかたへのりこして、
にはにうつぶさまにどうど落給おちたまふ。』

いそぎひきおこしてみたてまつれば、かほにはいさごひしゝゝとつき、
せうゝゝくち
にいり、はなぢながれ、殊臆ことにおくしてぞみえられける。』

とある。 すなわち右側からの騎乘を示す。

弓の長さは ほんの六尺くらいだから、巴御前あたりがつかった「女弓」ですか?
ゑびら には 鏑矢の替え矢が四本。
緋の胸懸むながい厚総あつぶさしりがい
緋威しは「総大將」を示す。  源氏は白旗、平家は赤旗。

平成二十三年十月十六日
神奈川縣鎌倉市由比ヶ濱海岸で撮影。

ご意見、ご質問は;

新・平家物語



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